嫌な感情は、本当の自分から離れてしまっていることを教えてくれます。
子供の事になると、自分で嫌な感情を選んでしまうんですよねぇ。
「宿題やったの?」
(今やろうと思ってたのに、やる気なくなった)
「〇〇ちゃんが出来るんだからあなたも出来るでしょ?」
(〇〇ちゃんと私は違うんだ人間でしょ)
「あなたのために言ってんの」
(ママのためでしょ)
ヒステリー、決めつけ、価値観の押し付け・・・
あぁ『自分が嫌だったことは、自分の子供にはしない』と決めていたはずなのに。
抑えられないんですよ・・
子供の将来のためだし、
躾がなってないって言われたら・・
言わずにすむなら言いたくないのに・・
「あれはダメ」「それはやっちゃダメ」
言わずにいられない。
それって本当に子供のため・・
お説教して親としての役目を果たした気分は得られても、
親と子供の関係は嘘っぽくなっていく。
結果、嫌な気分を感じているんです。
言う事を聞かないから、いたずらばかりするから、
「ママは気分が悪くなる」
「叱るママの方が心は痛いのよ!」
なんてことも娘に言ったりしましたっけ。
私は親からよく・・いやいや毎日叩かれました。
箸の持ち方から、挨拶の仕方、片付け方・・・
そんな時代だったので虐待とか思ったことはなく、不本意ではありましたが親の役割だと思っていたので憎しみを持ったこともなかった。
だから、子供は叩いて育てるものだと思ってた。
一人娘は、マイペースで自分が納得しないことはやりたくない、無理強いしようとしても、やらずに済む方法を考え出す能力が優れている子供でした。
娘が幼稚園年長さんぐらいだった、ある日のこと。
手を挙げようとしたら、真正面から私を見据えた娘が、
「叩きたかったら叩いてもいいよ、でも私はわからないことは叩かれてもいうことを聞かないからね!」って。
気が抜けました。
叩いて育てられない子供もいるんだ、叩くことは意味がなかったんだって。
娘にしたら自分が悪い事をしたと納得できないから、
私が怒っているのは躾ではなく、ただのヒステリーだったんです。
そういえば、娘が異常に癇が強いと感じていたとき、
従姉妹に、
「すごく有能な巫女さんがいるけど行ってみる?」
誘われて行ったことがあった。
巫女さんに言われた言葉は、
「あぁこの子は大丈夫、自分で考え行動できるから。安心しなさいな。そのかわり自分で納得しないことはダメだから、言いなりにはならないわよ」
今だからわかります。
子供にも、子供の内なる存在がある。
全ての人は『無条件の愛』の存在。
本当の私は無条件の愛。
娘を叱って嫌な気分になっていたのは、
本当の自分から離れていたからなんです。
自分が親や世間からすり込まれた価値観を、
娘にもすり込もうとしていただけだったんです。
自分に厳しい言葉で言うなら、
「あなたは子供の責任を人任せにしてたのよ!」
私は、愛の意味も勘違いしていて、
こんな事に気付く事に長い時間がかかってしまった。
娘に嫌な思いをさせてしまった。
自分も嫌な感情で過ごしてしまった。
自分で考え、
自分がどう感じるかを見つめていれば、
どう接するべきかは、
おのずと明らかになっていたのです。
今、娘を自分の子供というより、
一つの魂として接することが出来るようになり、
無条件の愛をそそげるようになり、
穏やかで信頼しあえる親子関係になれたのです。
大人から見たお子さんのイタズラやワガママは、
自分を精一杯表現したい欲求かもしれません。
やりたくない事があるのは、
もっとやらなければならない事があるのかもしれません。
親がレールを敷かなくても、
子供は自分で自分のレールを敷き進んでいくエネルギーがあるのです。
親は、子供が自分自身を謳歌できる安全な場所に送り出し、
戻ってくる安全な場所をつくっておくだけで良いのかもしれません。